私の過去回想、続き(12)
はっきり言って、めんどくさい(>_<)。先週、風邪で病院に行ってるから、今月毎週行ったような感じがする。。。だけど、眠れないから、仕方ない。
精神安定剤とか飲まれてる方は、それだけで、なんだか病気になったような、自分を追い詰めるような考えされるみたいな感じを受けるけど、別にそんな気にする事はないと思う。。。
私の場合、寝る為だけに、安定剤3種類くらいと睡眠導入剤飲んでるから、、、。これは、もう仕方ない”と受け入れている。自分が悪さしすぎたからだ”と、、、。
ほかっといたら、3~4日間くらいは徹夜できる。。。ボン中”ってそういうもん。これが後遺症。。。眠れない。寝ようとすると脳の中枢部が痙攣したみたいにしびれる。苦しい”って感じ。眠りに入ろうとするのを、脳が拒絶するというか、。若い時は、金縛りにあった”とか言ったりしてたけど、段々わかってきた。しびれてるんだ。。。
そのうちいつか、歳がいったら、自然に眠れるようになるかもしれない。
ちょっと、財布は痛いけど、薬を飲む事自体は別に気にすることはない。
それよりも、今日、いつものサウナに行って、「最近、抜け毛が多くて

昨日、Tりんちに久々に行ったら、すっごい事になっていた。家がゴミ箱状態だった。私が自分の写真をプリンター買ってきた時にプリントしてキレイにできたので、Tりんにあげる!”と無理矢理持って帰らせた写真が、まるで死んだ人の写真のように飾られていた(-_-;)。このセンスのなさはピカ1だよ。なんかすっごいわざとらしい”とも思えるような、、、。でも、たぶん本人には自然なんだろう。。。
この間、自分から、お墓参り(私達の子)に行く事を言いだしたから、まあいい。。。もう12月に入っちゃうよ”と言ったら、平日に休みをとると言ったから、、、。約束は守らせよう。。。全然、お経もあげれるようになってないとは思うけど、、、。たった、15分程の事の間に、まだか”と言わんばかりに溜息をつくし、なんかムカつくんだよ。この間から、普段からの溜息はくことについて、猛注意中なんだ、、、。その前はゲップを猛注意して最近しなくなった。ゲップされるのもなんか、、ムカつくから(;一_一)ゲップばっかりしやがって!”とかメール攻撃


で!もうあとちょっとだね~(#^.^#)”なんて電話でしゃべってて、こたつ買ってもらう約束をした~ヽ(^。^)ノこたつ布団もね!”ってヽ(^。^)ノあの人はいったい私のなんなんだろう。。。今週は夜勤で、さっき「あんたは私と縁が切れると思う?」とメールしたんだけど、応えは、、、ない(-_-;)。
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この間、借りてきたDVD、ガチボーイ”よかったー☆前から見たい”と思っていたんだけど、他に見たいのが出たりしていて、なかなか借りれずだった。今回、やっと借りてきた☆中身は、もうほんとストレートなストーリーだったけど、私はああいうのが結構好きだ。
主人公の大学生が、ある日事故で頭をぶつけて、記憶障害になる”という、寝たら前日の事はすべて忘れてしまう、そんな自分の人生に、大学のプロレス同好会に入る事を選ぶ、、、。主人公は、佐藤隆太☆私、この人がかなり好きだ。顔かな?雰囲気かな?なんかわからないけど、かなり好きなんだ

生きて行く事を見出すのは、すごく難しい。たどり着くまでは。。。記憶障害”なんてなったら、どうやって生きて行けばいいんだろう。。。闇だ。。。寝るのが怖くなるかな。。。その映画を見て、自分が瀕死になった時の事を今日はちょっと書こうかな”と、、、。
私は、16の時に自殺未遂をしたが死ねなかった。が、その後、30の時に、4日間、昏睡状態になった事がある。その時、Tりんと結婚して2年目の年越しだったかな?3年目だったかな?もう忘れた

そして、私は30にしてシンナーを吸った。Tりんはとめてもくれなかった。私としては、とめてほしかった。それだけだった。子供が欲しかった。こんな事をしていて産めなくなってもいいのか?あんたはいらないのか?と、、、。気持ちをはかるような事をそんな事でしか見いだせなかった。そして、どんどん深みに入って行った。体力は限界にきていた。淋しさで、毎日がどん底だった。
今思うと、私達夫婦は結婚をしていた間、お互いの悪い所ばかりが出てしまっていたような気がする。新築のマンションに引っ越して、もう21世紀が来る”というほんとなら、幸せいっぱいの頃なんだろう。だからこそ、たえられなかった。
Tりんがお正月休みに入っていた。私は仕事の事など、ほとんど聞くこともなく、好きにさせていた。だから、Tりんが休みに入ってる事も知らなかった。朝、いつもように出掛けて行き、夜帰ってくる。私は仕事に行っているのだと思っていた。そして、何かの拍子に休みに入っている事を知った。どこへ毎日行ってるんだ!?”となにか言い争いになった。
そして、別々の部屋で寝る。そんな日が続いていた年の暮れだった。
おかんが年末の掃除を手伝いに来てくれていた。私は母に、「S也にこれが最後のお年玉だぞ”って渡して(中学3年だったので)」と1万円を渡した。「おかあもありがとね」と言って1万ほど渡したような気がする。そして、おかんが帰って行った後、私は意識を失ったらしい。。。
正確にはその次の日だった。おかんが帰った後、私はまたシンナーを吸っていた。元気を装っていたが、もう衰弱しきっていた。それでも、淋しさから逃げたくて、シンナーに依存していた。Tりんは部屋から出してくれなくなって、私は水を飲むのさえ気を使って、トイレも我慢に我慢をして、やっと部屋から出る状態の日が何日か続いていた。処方されていた安定剤とシンナーで、私は幻聴が聞こえていたのに、それをおかしい事とは思わずに、その幻聴と会話をしていた。あれは今思うと、危機状態だったんだと思う。
そして、夜中に、お風呂に入ろう”と思い立った。シンナーを吸ってラリラリ状態で、お風呂に入った。次の日、目が覚めて即シンナーを吸った。Tりんは寝ていて、話しかけても話しかけても全然かまってくれない状態だった。私は、もう狂ったように「父ちゃんのありがたみがわからん奴は豆腐の角に頭ぶつけて死ね”なんだよね!」と言いながら、自分の頭をベッドの角にぶつけていた。ベッドといっても、マットタイプのもので、大して痛くはなかった。のだが、水分補給もせず、安定剤とシンナーでクタクタになった体にはたぶんこたえたのだろう。。。
意識を失った。。。
Tりんが、今日はおとなしいな”と思って、部屋を覗いたら、私が、白目をむいておしっこを垂れ流して、痙攣していたらしい。「ふみちゃん!!ふみちゃん!!!」と抱きかかえたらしいが、ピクピクとしたまま、返事をしなかったらしい。かなりの勢いで頬を叩いたけど、返事をしない。これはやばい!!”と思って、救急車を呼んだところ、危険状態の一番上の状態だったらしい。そのまま、救急車で運ばれた。救急隊員がどういう処置をしたのかしらないけれど、運ばれる時、「○○病院はイヤだー!!」とかなり嫌がって叫んでいたらしい。それは、16の時運ばれた病院の事だった。あまりに嫌がるので、救急隊員も折れて、大学病院の方へ向かった”と、、、。
そこで、私はICU(集中治療室)に入れられた。16の時、自殺未遂をして運ばれた時のような、半分意識があるような者が治療を受けるような生易しいところではない。意識不明の重症患者で、命がかかっている人だけが来るところだ。
私はそのICUのベッドの上で意識不明の状態で21世紀を迎えた。
医者は、「かなり危険です」覚悟してくれ”みたいな事を言ったらしい。そして、しばらくして、「このまま植物状態か、もし意識が戻ったとしても、何らかの障害は残るでしょう」と言ったらしい。母は、電車で病院まで来てくれたらしいが、帰りの電車の中でも涙が止まらなかった”と言っていた。病院でも、「親より早く逝くなんて!!そんな親不孝頼むからやめて!!」と泣いていたらしい。ICUには、30分以上は居ることができなくて、Tりんは待合室とICUとを出たり入ったりしながら、自分のご飯と、クッキー


そして!私は奇跡的に意識が戻った!
その時の事は、今でも覚えている。海外ドラマの、デッドゾーン”。あの、ーシャ!”て入る効果音、あれにそっくり。テケ”テケ”テケ”テケ”っていうあの音。あんな感じ。あのドラマみた時ビックリした。ほんとに自分が味わった音だ。
よく、死んだ人が自分で自分を見ている”とかテレビでもやるけど、あんなテレビでやるみたいに、ジーッと立ってはいない。瞬間、ほんとに瞬間、ーシャ!ーシャ!って何度か自分をそとから見た。
そして、これは人それぞれだと思うけど(そんなに瀕死状態になる人はいないでしょうが)、その時お正月だったから?なのか、七福神みたいのが見えた。目の前を、ベロベロ~”と舌を出して笑わせる布袋様?が通り過ぎ、羽衣みたいのをヒラヒラ~っとさせた弁天様みたいのが通り過ぎ、次の瞬間、カナヅチみたいので大黒様?みたいのに、カンカンカン”と頭を叩かれて、痛い!!と思った瞬間、意識が戻った。
看護婦さんが、ゆっくりこっちを見て歩いてきた。
すっごい顔を近づける。ものすごい近づける。反応を見ているのだろう。そして、もう一人看護婦さんが来た。2人で確認しているのだろう。
「わかりますかー?」と大きくも小さくもない声で呼びかけられる。
体中、管だらけ。それまでにない半端じゃない管だらけ。声が出ない。動けない。喉がカラカラ。
そして、先生だろう。こわそうな先生だった。歩いてきた。少し私を見て、すぐに歩いて行った。
しばらくして、Tりんが入ってきた。
その時の恐怖は、なんとも言えない、お年寄りが認知症になっていく感じってこういう感じなのかな?”と今は思う。
Tりんが、誰かわからないのだ。Tりんは泣いている。「よかったな。よかったな(/_;)」と。。。だけど、誰?って、、、。その感覚がすっごいこわいんだ。見た事はあるような気がする。だけど、わからない。知らない。。。
しばらくして、おかんとS也が入ってきた。さすがに2人の事はわかった。その時の皆の格好が不思議だった。どうしてもそれが聞きたかった。なんで皆エプロンつけてるの?”と言った。そして、色覚が変だった。みんなの顔の色がすごく黒く見えた。まるで、みんな日焼けでもしてるかのようだった。皆の鼻の穴がすごく鮮明に見えた。なんだろう?なんで皆こんな変な顔してるんだろう?”と思った。
とにかく意識が戻った”という事で、TりんもおかんもS也も帰って行った。
Tりんの事はしばらくしてから思い出した。私、結婚してたんだ(゜o゜)!!って、、、。
看護婦さんが、私に名前を聞いても最初は「ふ・み・○」としか言えなかった。「何ふみ○さん?苗字は?」と聞かれても、わからない。「今日は何月何日かわかりますか?」と聞かれた。「3月くらい?」と答えた。病室はポカポカと温かかったからそう思ったのか?私自身もわからない。「今日は1月3日ですよ~」と言われた。わからない。「うそ?だってあったかいよ」と言ったら、「寒いですよ~。外は雪が降ってますよ~。」と言われた。「ここまでどうやってきたか覚えてますか~?」と聞かれ、「タクシーで来た」と言った。看護婦さん達は、不思議な顔をしていた。病院というのは把握しているみたいだが、どこかは把握しきれていないみたいだ”、そんな感じだったんだろう。「ここどこかわかりますか?」と言われ、十二指腸潰瘍で入院していた病院だと思っていた私は、その病院の名前を言った。「ここへは救急車で運ばれました。○○大病院ですよ」と。(?_?)。子供オロシタ所に何で今いるの(?_?)。。。そちらは付属病院でこっちは大学病院ですよ”と、、、。
ちょっとのつもりが長くなりました。。。また続きは今度にします、、、。
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明日にするつもりだったんですが、やっぱり書きかけたら、なんか途中だと気持ちが悪いので、追記にして書きます。。。
ずっと書いてきている過去回想とは、間が空き過ぎてる”というか、この話は自分的にはまた別モノみたいな気ががするので、、、。
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病室は静かに音楽が流れていた。今でも、覚えている。オルゴール調のユーミンの守ってあげたい”が何回も何回もかかっていた。
隣のベッドには、未熟児で生まれてきた子が寝ていたみたいだった。おかんが覗いて、「まあ、ちいちゃい」「かわいい子やで」と言っていた。「見てみ~」とか言うような事を言っていたような気がするが、おかん(-_-;)。。。人の子より、わが子管まみれで動けるか(-_-;)ちゅうねん。。。病院に来てまで不謹慎やな、おかんは(-_-;)。。。
そして、それから退院するまでのたった2~3日だったけど、その2~3日間がなんとつらかった事か。。。
まず、水を飲ませてもらえなかった。喉がカラカラなのに、頼むから”と言っても、コットンガーゼのようなものに水を含ませたものを、くわえさせられるだけ、、、。喉がカラカラだった私は、チューチュー吸ってしまって、すぐガーゼはカリンコリン”に、、、。喉が渇き過ぎて死んでしまう”と思うほど、泣きたくなるほど喉がカラカラだった。何度かガーゼをくわえさせられているうちに、ちょっとづつ吸って、長持ちさせることを覚えた。
そして、看護婦さんが、「お名前は?」とまた聞きにくる。「生年月日は言えますか?」と聞かれる。「1+2は?」と聞かれ、それはわかる。そして「3+5は?」と聞かれた時、、、。わからない。指を使って1,2,3,4、、、と。「8」と答える。「5+7は?」と聞かれた時、もう全くわからなくなった。指を使おうとしたら、看護婦さんが「指使っちゃダメです。」と指を抑えられた。「わかったら呼んでください」と言って、持ち場に戻られた。持ち場と言っても患者さんの容体が全部見えるような、すぐ目の前にいる。
しばらく考えて、答えを言う。そしてまた違う問題を出していかれる。「8+4は?」というような小学生レベルのものを、、、。それが、わからなくなっている。すごい恐怖だった。なんでわからないんだろう私?こわい。すごくこわい。そんな思いだった。
水は飲ませてもらえないし、神経が麻痺していて、指さえ思うように動かない。鼻にも喉にも胸にも管が入っていて、ものすごく鼻が痒かったのを覚えている。必死で、指を鼻までもってきて、鼻の穴をホジホジしていた。はずかしい”という気持ちはあったのだが、たえられる痒さではなかった。もうどうでもいい!人前だろうが鼻の穴ホジってやる!”と何時間くらいホジっていただろう?。。。看護婦さんがきて、そんなにしちゃダメ!”と怒られ、手をおろされた。
そして、また、頑張って手を鼻まで持っていく。痒いんだ。痒いんだー(>_<)そんな感じだった。
そして、2日目が終わるころ、鼻の管を抜いてもらった。
その頃には、簡単な2ケタの暗算ができるようになるくらい回復した。
だけど、おしっこの管が入ったまま、私は自分の意思で身動きがとれず、その時生理が来たのを覚えている。すっごいカッコ悪かった。人前で、下をさらけ出して、下痢にまでなってしまい、なんとか簡易トイレでさせてもらえるように頼み、便意がきたら、看護婦さんを呼んで、おこしてもらい、便器に座らせてもらった。だけど、している姿は丸見え。。。そして、普段水洗トイレを使っていて気付かないけど、人間の便は何と臭い事か、、、。自分でも驚きだった。それを片付ける看護婦さんには、ほんとに頭がさがる思いだった。
そして、お風呂に入れてくれていたのだろうか?ものすごい苦しくて、体を右にされたり、左にされたりしていた。それがものすごく長い時間に感じて、苦しかった。半端じゃなく苦しくて、「もういいです。死なせて下さい。」と言った。あれは何をされていたのか?今でもわからない。まるで陰陽師のお祓いでも受けているかのように思えた。目の前で腕がグルングルン”と動いていた。
あとでTりんに聞いたら、行った時ゲロまみれで髪の毛グチャグチャになってたけど、その後行った時キレイになってたから、たぶんお風呂にいれてくれてたんじゃないか?”と言っていた。
Tりんてそういうとこムカつく。何をして今入れてる薬はこれだ”とかなんとか色々聞けよ!って。私なら聞くけど

そして、やっと水を飲ませてもらえるようになり、声はまだ出なかったが、なんとか簡易トイレに手をつないでもらうくらいで出来るようになった。
その半端じゃない3日間は、私の人生を変えた大きな出来事になった。
Tりんが正月休みの間にどうしても帰りたかった私は、とにかく頑張って頑張って、先生にお願いをした。そして、ギリギリに帰る事が出来た。
うちへ帰ったら、正月前、家をピカピカに掃除していたのに、ものの5日ほどでゴミ溜めになっていた。その時は、Tりん、大変だったんだな



そして、その時このうちの大黒柱は私なんだ”と悟った。
私が家を空けたことで、家族皆、おかんもお姉ちゃんもS也もTりんにも、その年は正月が来なかった。うちの家族は私が支えてるんだ”と思った。お姉ちゃんは全く料理ができない人だし、おかんは年がら年中貧乏やし、Tりんだって料理は全くダメ、S也は中学生だったし、ふみちゃんちで正月はおせちやすき焼きくらい食べさせてもらおう”と新築マンションだしね”なんて思っていたんだろう。。。みんな、何の用意もせずで、うちに来るつもりみたいだった。
それで、私は死ぬ事もまだ許されていない”と死ぬ事を諦めた。
そして、しばらくして、声も徐々に戻った。死ぬかもしれない”と言われた私が、なんの後遺症もなく生きている。すごい事だ。そう思った。私はまだ生きろ”と神様(仏様)が言っているんだ”と思った。
そして、幸せになろう”と強く思い、Tりんとの関係も修復していこうと思った。なんというか、改心したというか、それからはかなり主婦業に力を入れるようになった。とにかくいい奥さんであろう”とつとめた。今思っても、ほんとにいい奥さんだった”と言える。
その時私は、Tりんのもとで、そこで生きて行こう”と思いを決めた。生きて行く道を、そこに作ろうとしていた。この人と幸せになろう”と心新たに決めたのだった。
そんな強い思いがあったからこそ、修羅場は余計ひどいものになったのかもしれない。。。
そして、今。。。
まだまだ、頑張るよ!私はまだ幸せになっていないからね

こんな風だから、過去の事だとか、ウジウジと、勘違いしないでほしい。
思いだしたくないなら、それはまだ自分のなかで痛手なわけで、思いださなければいい事だ。私はこえてきたから、わざわざ思いだして書いている。
正直、30過ぎまでシンナー吸ったなんて、どこにも言えない事だからね。だけど、そういう世界を見てきた私にとっては、いつも錠剤をカリカリかじってたり、葉っぱふかしたり、それでもシンナー吸う奴は50過ぎてハマった人間も見てきた。だから、依存症という風に私はみている。
前に進むには、過去を見直す事ってすごい大事な事だと私は思う。
長いブログにお付き合い頂いた方、お疲れ様です。ありがとうございました。。。

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