私の過去回想、続き、、、(9)
なんだか、バタバタとしていた1週間?以上になるのかな?
今日は虫につけ狙われた日だった。。。
夕方、おなかが減って回転寿司に行こうとうちを出て、おかずの買いだしにスーパーへ行った。買い物が終わり、車へ。。。
キャー!!やめてよー(>_<)!!こんなオソロシイものが!!

急いで窓を閉めたけど、足が挟まったのか?!バンバン窓を叩いても逃げて行かない(>_<)!!窓を開けて足を外してやろうか?いや、わかんない。もし中に入ってきたら(>_<)!!
恐怖のまま、病院まで走り、まだくっついている。仕方ない!反対側から降りて、戻ったら、まだいるー!!仕方なくまた反対側から乗って、ちょっとスピードを出して走った。雨ヨケが風ヨケになって全然飛んで行ってくれなーい!!そんなに敵意ムキ出しにこっち見んなよ~(>_<)。。。

バンバン窓を叩きながら走って、ようやくどこかで落ちてくれた。。。
うちに帰って、しばらくしてからキッチンの隅に!!
クモがー(>_<)!!
もう!なによ~!なんでよ~!
さすがにクモは掃除機で吸い取った。。。パックを取りだすのがちょっと気持ち悪いけど、クモは前にも吸い取った事があるから、大丈夫だろう、、、。
私は芳香剤が好きで、うちから甘い匂いがするからクモがくるんだろうか('_')?、、、
病院では、子供が熱を出して注射をうちにきている子がいて、ものすごい勢いで泣いていた。。。
あそこまですごい泣き声は久々に聞いた。
お母さん、恥ずかしそうだった(^_^;)。。。
え~と、ではでは、この間の続きを、、、。
その場所は精神科の隔離病棟で、私は、保護室という鉄格子の牢屋状態の所に入れられていた。そこへは、状態のひどい人や暴れたりする人が入れられたりするので、入っている者同士は顔が見えないように、入れられていた。
その時、私に声をかけてくれたのは、男性だった。歳はいくつ位だったのだろう?、、。30代か40代くらいだったのかな?「どこにいるんですかー?」と鉄格子にしがみ付いて見てみたら、「ここだよー」と鉄格子の間から腕を出して振ってくれた。「見えるかーい?」と、「見えた見えたー!!」と、そこで、顔は見えないまま、話をするようになった。何の話をしていたかは、もう覚えてはいない。どうして来たの?”とかそんな事から、家族の事や仕事の話をしていたのかな、、、。歌のリクエストをされて、知ってるよ!”と歌ったりしていたのは覚えている。。。
それから、何日かその中で過ごし、先生がやってきた。。。
最初は、暴言をはいたり、無視していたりして、出してもらえなかった。私はその頃どんな気持ちでいたのだろう?、、、。死にたい気持ちはまだあったと思うが、さすがに舌を噛み切ってまで死ぬ勇気はなかった。そこには何もない。トイレしかない。トイレをすると、巡回の人に、「したので流してください」と言って流してもらうという感じだった。
それから、しばらくしてそこを出してもらえる日が来た。
グルグルと大きな病院を歩かされて、連れて行かれたのは、精神科の隔離入院病棟だった。
中には普通の方もいた。お年寄りで身寄りがなく、老人施設とかへも入れず、そこへ来た人や、薬物中毒の人とか、、。何年もいる主のような人もいた。
食後だったか就寝前だったか?忘れたけれど、とにかく薬を飲まされた。皆、一列に並んで飲まされる。あとで吐き出したりしないか、ちゃんと飲みこんだか口を開けて見せる。なんだか人間扱いされていないようで、それが私はとてもイヤだった。
ご飯も、学校給食のようにおぼんを持って並ぶ。ただ、ごはんは美味しかった。
カウンセラーの先生と話をさせられたが、当時とても若い女性の先生で、今思うとあの方があんな精神科のカウンセラーがまともに務まっていたとは思えない。優しいかわいい感じの先生だった。
私の主治医は中年の男性の先生だったが、私の当時の精神状態から、若い女性のカウンセラーをつけたのだと今は思う。
私はそこで、先生に「Tちゃんに会わせてほしい」と頼んでいた。母が面会に来た時にも、とにかく会わせてくほしい、つれてきて”と頼んでいた。最初、拒んでいたようだったが、2週間ほどした頃、来てくれた。ものの15分ほどで帰っていったが、向こうもそんな場所にきているとは思わなかったのだろう、、、。戸惑ってなにを話したらいいのかわからなかったと思う。たぶん、主治医からも、刺激するような事を言わないように”と言われていたと思う。その15分、何を話したか?全然覚えていない、、、。
それから、早くそこを出たいと思うようになり、(今は精神科は厳しくなったけど、昔は家族の承諾があれば出られたので)先生に懇願していたが、なかなか聞き入れてもらえず、脱走しようとしたりした。が、そう簡単に抜け出せるようなモノではなかった。捕まって暴れて、保護服というような腕を後ろで縛られるようなモノを着せられて、また保護室に入れられたりした。ゴロン”と保護室に転がされるように入れられて、「うわー!!」と足をバタつかせ声だけ張り上げていたりした。
そして、一晩すると先生がやってきて、保護服だけは脱がせてもらう。そして、しばらく時間をおいて、先生がきて、出してもらうという感じだった。
そんな風にしながら、1カ月位たったのだろうか。。。
退院許可がおりた。
仲良くなった方達は、「もうこんなとこ来ちゃいかんよ」と励ましてくれた。
それが16の夏、学年で言うと高2の夏だった。
退院してから、それまで働いていた所へ「未成年でした
働く事を決めて、会社に行くと、喫茶店の方で空きが出るから”という事で、そっちで働いて”と言われ、私自身もちょっと気楽になった。事務員なんて、自信がなかったし、私とはなんだか違う世界の様な気がしていたのだ。給料は事務員と変わらない金額をくれるという事で、私はその会社の喫茶店で働く事になった。
そこは、日替わりランチをママさんがメニューを考えて出すお店で、毎日、色んな料理をさせられた。私はそこで日常生活の主婦がするほとんどの料理ができるようになったと言ってもいいくらい、色々な料理を覚えた。ママさんは、「18になるまでここで花嫁修業しなさい。夜の商売は20になったら、サッとやめるんだよ」と言われていた。
そんな風にして怒涛の16才を終え、17才を迎えた。。。

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