菩薩の境涯

妙法蓮華・教菩薩法・仏所護念

という言葉ですが、この仏所護念云々といいますのは、

「この大乗教の妙法蓮華というのは、菩薩を教える方で、

また仏の護念したもうところの教である。

この妙法蓮華経は三世十方の仏が護り念じてきたものである。」

ということであります。

菩薩というのは菩提薩埵(ぼだいさつた)と申しまして、

自分で仏になろうと志して修行し、

他の者にも利益を与えようとするものをいいます。


仏といいますのは、死んだ人をいうのではなくて、

三世十方の仏の意味なのであります。


死んだ人が仏だというのならば、

仏になるには死ねばよいのですから、

仏道修行はいらない事になるではありませんか。


人間の生命には十の種類がある。

カントの言葉を借りれば範疇(はんちゅう)とも言えます。

この生命の範疇は、くわしく分ければ三千あります。

これを一念三千と言います。


大別すれば十法界と言って、

仏、菩薩、縁覚(えんかく)、声聞(しょうもん)、天、

人、修羅、畜生、餓鬼、地獄

の十種がある。


煩悶懊悩(はんもんおうのう)の境涯が地獄です。

借金取りが来て、青くなるのや、病気で悩むのは地獄であります。

餓鬼というのは、金が欲しい、物を食いたいと言って悩む境涯であります。

畜生というのは、目先の事しかわからないで、

強いものにはペコペコして、弱い者には威張るようなものであります。

修羅というのは、怒っている時であります。

それから心のねじくれているもの、物事を正しく見ないで、

ひねくれ根性のものであります。

人界というのは、我々の普通の平らかな境涯であります。

天界というのは、喜びの生活であります。

声聞、縁覚というのは、二乗といって、理論だけ求め、

また自分だけ安心していれば、

幸せであればそれでよいというものであります。

菩薩というのは、人を救ってやろう、

知恵を働かして助けてやろうという、

他人の幸福を考える人が菩薩の境涯の人であります。

次に、絶対の安心の境涯に立ち切った生活、

その人の生活はいつも喜びにふるえ、

誰人が壊そうとしても壊す事の出来ない境涯、

その境涯に立って永遠の幸福をつかみきった人を仏といいます。


このような境涯が、死後の生命にもあります。

三世の生命観は仏法の根幹であり、永遠の真理といえます。


生きている我々の生活は、毎日が六道輪廻の生活ですから、

死んでから誰でも絶対安心の世界にいけるわけのものではございません。

これを○○教などは、釈尊の権(かり)の教えですから、

死んだら三途の川へ行って、そこで六文銭を払って、

六道のどっちへ行くか定まるなどという事に六道を用いていますが、

そんなものではありません。


我々の毎日の生活に、六道があるのであります。

例えば、

朝起きて、すがすがしい気持ちで晴々としている時は天界であります。

ところが次の瞬間には

「ああ、腹が減った。」

となるのは餓鬼道であります。

台所へ行ったら奥さんが、まだご飯をつくっていない、

そこで怒れば、もう修羅界であります。

今度はこっちがやられそうになります。

こわくなります、これは畜生界であります。

それで、また夫婦仲直りすれば、人界であります。


この六つの道を、いつも廻っているのが六道輪廻であります。

これが死後の生命にもあるわけです。


この十界が誤って用いられるようになりましたのは、

念仏等の邪教の罪であります。

といいますのは、

念仏なんかをやっていれば、必ず不幸になって、

地獄の境涯で死んで行きます。

もちろん、死相が悪いわけであります。

だからといって、

「あなたのおじいさんは地獄へ行った。」

そう言われたら気持ちが悪いでしょう。

それを、

「おじいさんは仏界へ行って、仏様になっていますから安心しなさい。」

と、お世辞を言われましたら、

やはり人間ですから、言われた当事者の方は気持ちがよい。

ですから仏の世界へ行った、仏になったという言葉が

普通の通用語になってしまって、

死んだら仏になるというような考え方をする、

仏法に無知な日本人ばかりになってしまったのであります。

このような解釈は、仏法哲学ではありません。


ところが○○宗などが、

人々の無知につけこんで、仏所護念とは、

死んだ人が仏であるから、それを拝めば仏所護念で、

その仏が護ってくれる、などというようになっております。


これは実にとんでもない誤りで、

大いに恐るべきことであります。

なぜなら、彼らは人の戒名を書いてベタベタと貼り付けて

南無妙法蓮華経と唱えさせます。

するとどうなるか。

境地冥合(きょうちみょうごう)の力を出して、その戒名にあらわれる生命に感応いたします。

死んだ人が地獄に行っているならば、

こっちの生命が感応して自分が苦しみ悩むようになります。

十五枚貼ったうち、十人地獄が手伝いにきたとする。

これでは生活がメチャメチャになるのは当然であります。


しかし、この原理がはっきりと見えるものならば、

邪教は誰もやりません。

これは哲学上思惟して、仏法原理によって定めていかねばならないがゆえに、

すぐ、人にはわかりませんから、

のんきに恐ろしい邪教とも知らずにやっているわけであります。




~戸田城聖講述 方便品壽量品講義 より抜粋~




 



2 Comments

ふーみん09  

癌ダム4G さんへ

あはは(^_^;)

まさか、ここまでの物は私には書けませんよv-356
わかってはいるんですよ。
私はもう30年以上、教を唱えていますからね。
教えてくれ”という人には話をできますが、
やはりこういう先生の書かれたものは
うん”とうなずけるものですから。

でも講義なので、とても長いので、どこで切ったらいいのかわからなくなってしまって
適当なところでやめました(^_^;)

日本には色んな宗教がありますので、
何々宗と言うことは避けておきます。

2013/01/26 (Sat) 14:46 | REPLY |   

癌ダム4G  

あ~ビックリした!抜粋ですか(笑)

まぁ僕などは、わかったような顔で般若心経を語り
困ったときには、南無観世音菩薩と三度唱えて祈る
位の適当な仏教徒ではありますが…。

ふ~みんさんも、結構お詳しいんですね。

2013/01/26 (Sat) 01:02 | REPLY |   

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