my birthday
履歴書も訂正しなければ、、、。もうギリギリ目一杯の歳だよ~(:_;)どうしよう、、、。私、、、。
結構、プラプラ”お気楽と言えばお気楽に過ごしてきたし、、、。苦労したといえば、したかもしれない。私は、あまり自分の苦労を人に言いたくはない。たぶん、かなり苦労してきた方だと思うから、哀れまれるのがイヤだ。でも今日は少し書いてみよう”と思う。
いつも行くお風呂屋(スーパー銭湯)に、「私は苦労してきてきたのよー!!」と私の顔見るたびに言う人がいる。だから?”って感じ(;一_一)。聞いても、別にそれが苦労なの?”と思ってしまう。そのおばちゃんは、ご主人が仕事をクビになって、アル中になり下半身麻痺かなにかになったらしく、働けなくなり、子供もいた為自分が働いて、ご主人のお酒を取り上げても取り上げても飲んで、などなど、、、言っていた。だけど、そのおばちゃん自分も健康センターでタラフク飲んでいる。はっきり言って、あのおばちゃんほど、タラフク”という言葉がぴったりくるような人、そうそういないんじゃないか?と思うくらい、太っている!!遠くから見ても、すぐにその人だってわかる!お風呂の中なんかでは、特にわかる!!私もかなりのおデブだし、太っている事をとやかく言うのではなくて、痩せたい″痩せたい”と言うのなら、酒やめろ!”って感じ。自分が飲んでおいて、旦那アル中って?そりゃ旦那さんもかわいそうにね”って思う。
まず、苦労とか、辛いとか、根本的におかしい人が多い。旦那さんが、クビになったのは不幸だ、けどなぜ次を探させない?エリートだったかなんだか知らないけど、働かなければエリートも何もない。子供がいたから”って、別に自分が働いて生活していける力を持ったのなら、アル中のプー太郎ジジイなんて私ならいらない。自分が淋しいから一緒にいただけでしょ?って。子供のせいにすんなよ”って。子供だって、アル中のプー太郎親父が中途半端にいるより、お母さん一人でも一生懸命育ててくれた”って方がずっといいと思う。何を苦労したのか、私にはわからないなぁ。
だから、そのおばさんに会うのがすごくすごくイヤだ。
私は苦労したように見えないせいか、色々講釈をたれたいんだろうけどさ、たぶん、あんたよりは苦労してるよ”って思うから、、、。
別に、私の肌が白いのは世間知らずだからではない。しわやしみが少ないのも、苦労していないからではない。努力してきたからだ。女は30過ぎると差がつくと思う。40でさらに差がつく。50、60は努力した人とそうでなかった人は、確実にわかれると思う。
私は太っているけど、うちの姉は小柄でずっと体系をキープしてきた。寝る前には、毎日ストレッチをしてから寝ている”と言っていた。やっぱり、それなりの努力をちゃんとしているんだなあ”と思った。
簡単に言うと、私は子供の時、いや、母のおなかの中にいる時に、母がガスコンロを爆発させてしまって、助からないかも”と言われる中、生まれてきた。その時の事は新聞にも、小さくのったらしい。妊婦重症?とか?私は見た事はないけど亡くなった父がそう言っていた。父が、「子供だけは助けてくれ!」と言っていたそうだ。おかんは?って今思うんだけど(-"-)、、、。
それで、点滴やらで私はおなかの中で大きくなりすぎ、かなり難産だったらしい。「お姉ちゃんはスッと生まれてきたんやけど、お前は時間かかったわぁ」と言っていた。だけど、うちの父は酒乱で、かなり腕のいいペンキ職人だったんだけど、働いたり働かなかったりで、その上、とにかくギャンブル好きだった。パチンコ・競馬がとにかく好きだった。負けて酒をあおった日にゃ、暴れる。そんな感じだった。
私と姉の歳の差は5つあるが、その間に離婚しようとは思わなかったのだろうか?そんな父と一緒にいて、生活の不安はなかったのだろうか?一人目は色んな希望を抱え産んだとして、〝子供ができたら変わってくれるだろう″と、よく耳にする言葉だが、産んでも変わらなかったら、二人目産む気にはなれないだろう?と思うのだが、、、。それなのに、母は私を産んだ。どういう気持ちだったのか何カ月か前に聞いてみた。いたって簡単だ。「だってできたんやもん。しゃーないやん。」って(-_-;)。。。
そんな風にして生まれてきて、結構小さい時は体が弱く、体育の時間見学している子”、あんな感じだった。喘息持ちで、学校まで歩くのも結構必死の思いで休み休みしながら、歩いていた。思い出した。私が小学生にあがる時、母は家出をしていた。それで、姉に連れられて、母のもとへ行き、入学式の服と靴を買ってもらった。私の入学式には、母は来なかった。代わりに姉が連れて行ってくれたと思う。母は私が物心ついた時から、しょっちゅう家出をしていた。家を出ては父に探しだされ、連れ戻される”そんな感じだった。だから、子供の頃はおばあちゃんに育てられたようなもんだ。おばあちゃんは、白内障で目が見えず、耳も聞こえず、ほとんど寝たきりの人だった。友達は、ふみちゃんちのおばあちゃんこわい”と言ってうちにはあまり遊びに来てくれなかった。子供には、寝たきりで目が真っ白で、白髪のおばあさんはこわかったのだろう、、、。それでも、仲良くなった子の一人が、毎日うちへ来てくれるようになって、ピンクレディーのレコードをかけ、毎日踊っていた。おばあちゃんが、それを見るのを楽しみにするようになっていたかなぁ、、、。「もういっぺん踊って見せてぇ」とベッドの中から言っていたのを、かすかに覚えている、、、。
小学2年の時、おばあちゃんが亡くなり、私達兄弟3人は、面倒をみる人がいなくなって、父の妹夫婦に引き取られた。妹夫婦には子供がなかったし、その時は金銭的にも多少余裕があったからだと思う。私達兄弟はおばさん夫婦の事を、ママ・パパと呼んでいた。だけど、たしか5年生の時だったと思う。パパの経営していた会社が不渡りを出して、倒産した。借金地獄とは、ああいう事を言うんじゃないか?と思う。毎日、毎日、電話がジャンジャン。パパとママは夜遅くならないと帰ってこない。借金取りがくる間は、帰ってこれなかったのだろう、、、。「電話は3回コールしたら、ママやで」と。それ以外はとらなくていい”と言われていた。でも、子供だった私と弟は、電話が鳴ると走っていき、電話の取りあいをしていた。食べるモノもなくなって、私達は夕方になると、カマを持って川原の土手へ行き草を刈って、それを煮て食べていた。お風呂もガスから薪で沸かすタイプに変えられた。材木が、あまりあまっていたからだと思う。いつも材木を軽トラから倉庫へ、運ばされた。子供だった私と弟には、よく理解できていなかったが、姉はイヤでイヤで仕方なかったらしい。当時、高校生の姉は、スガキヤでバイトをしていたが、そのバイト代はママが生活の為に取り上げてしまっていたらしい。それで、姉は高校1年が終わる頃、学校を中退し母のもとに家出してしまった。
その頃、父が私達を引き取りたい”と言ってきていた。私と弟はまだ小さいから男手一人では無理だ”とママが言って、お姉ちゃんだけでも!”という話になっていた気がする。姉は、父と暮らすのは絶対嫌だったみたいだ。私と弟より5年長く父の酒乱を見ていたからだと思う。それも重なって、家を出たんだと思う。
それで、私と弟は小学6年の時(弟5年)、父に引き取られた。もちろん、酒癖なんか直っちゃいない。もちろんギャンブルだって直らない。色んなモノをローンを組んで買っては、次から次へ質流れにする。その金を持って、競馬、パチンコに走る。最終的に私が食費として持たされていたお金を渡せ”と言ってくる。イヤだ!”と言ってもネバってネバって、結局私が折れてナケナシのお金を父に渡し、勝
ってきたタメシはない。学校から帰るとテレビ、ラジカセ、ビデオ、、、やらなんやら次々になくなっては戻り、なくなっては戻り”のような生活をしていた。食事は、私と弟が順番で1日置きに作っていた。その頃、まだ珍しいおかずの材料の配達を頼んでいた。作り方が書いてあったので、それを見て変わり変わりに作っていた。
そのうちに母が戻ってきた。のか父が見つけたのか?、、、。だけど、母には男がいて、私達家族はその男を入れて5人で暮らしていた事があった。今では事件などがあるニュースでやっているような変な家族だった。
それから、男は出て行き、父は中古の一戸建てのうちを買った。母と私と弟と4人で暮らそう”と。引っ越す直前、母は家出した。その男と示し合わせたのだろう。
仕方なく私達3人は引っ越した。
その後、父も家出した。
兄弟2人、置き去りだ、、、。弟はまだ小学生だったので、昼間は学校給食があった。夜は私がお米をといで、具のないシチューを作っていた。私は毎日チャーハンを作ってお弁当持っていっていた。限界まで来て、公衆電話からママに電話をかけ、手元にはもう100円もなかったと思う。次の日、ママが迎えにきてくれた。学校はその場で即転校になった。
その時の私の担任だった先生が、「あんた、強すぎるわ。。。先生、何にも気付かへんかった。そんなに強くなくてもいいんやで(:_;)」と涙浮かべて言ってくれたのは、今でも覚えている。その後、先生がクラス皆の寄せ書きを引っ越し先の住所に送ってくれた。男の子も女の子も、私はその時の子達が一番好きだ。家ではイヤすぎたけど、友達は最高だった。
それから、ママ一人になった所へ私と弟は引き取られた。
私は、違う学校のセーラー服をいつまでも着ていて、先輩に目をつけられ、呼び出され文句を言われた事があった。「うちは貧乏で制服が買えません!」と正義感の強かった私は、引くことなくヤンキーの先輩相手に言った。うちへ帰ってから涙が出た事を覚えている。でもその後、そのヤンキー先輩さんは、とても可愛がってくれるようになった。
それから、ママと弟と3人暮らしになった。パパとは離婚していたのか、別居していたのか?わからないが、週末はパパがきていた。
その当時の事をあまりよくおぼえていないが、、、。パパのお母さん、おばあちゃんも一緒に暮すようになった。私はおばあちゃんが大好きだった。とにかく優しいのはおばあちゃんだけだった。ママのツンツンとした態度が私にはたえられなかった。うちの中はシーンとしていて、言葉ではなく態度でイヤミな事をされるのが私には堪えられなかった。
中学2年の時、初めてシンナーを吸った。最初、とてもこわかった。ひと夏、シンナー遊びをして、パパにみつかり、どつきまわされ、やめた。
いったん、そこでやめたんだが、その1年後またシンナー遊びが私の中に戻ってくる。
その後、シンナーとは長い長いつきあいになる。
また続きは、起きてから、、、、。
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