その後、、、
この歌って、男女関係だけじゃなくても聞けるような部分がある気がするんだ。
まったく母へ向けてにするとちょっと変だけど、いい感じあると思う。。。
私は母と出会ったんだ。
私がお母の手を握ってるよ。
私がお母の生きた意味になるよ。きっとなるよ。
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今週の火曜日にS也が一人でお母の所に見舞いに来たらしい。
よかった。あの子、ちゃんと優しさ、忘れてなかったんだ。。。
お姉ちゃんも火曜日に来たらしい。
おかんに二人は会ったの?と聞いたら、
お姉ちゃんが先に来て、1時間位で帰って、その後S也が入れ違いで来た”と言っていた。
今回、S也におかんが引き取ったいきさつを話した。
お姉ちゃんが離婚する時、まだ25くらいだったかな?
水商売だったしね、こんな家庭で育つくらいなら、旦那側の親元に引き取ってもらった方が
しっかりとしたうちだし、高校・大学まで出してもらえるんじゃないだろうか?”と
この子の将来をほんとに考えるなら自分の元に置いておくより、
その方がこの子の為だろう”と思い、旦那さん側へ引き取ってもらおうと思ったと言っていた事。
血縁をすごく大事にするおかんはその時、それをすごく反対した。
お姉ちゃんが歳いった時に、この子がそばにいた方が絶対いい!”と
お姉ちゃん一人ぼっちになっちゃうじゃないか!”と
ま、もちろんそれだけではないが、とにかくこの子は渡さない!”と言ったのだ。
お姉ちゃんが育てないと言うならお母が育てる!”と
当時まだ若かったお姉ちゃんは、じゃあお母が育てれば!”となったらしい。。。
それ以降、ずっとおかんがS也の母親代わりになって
それまで「おばあ”」と呼んでいたのがいつしか「お母”」と呼ぶようになっていた。
幼稚園や小学校では、他のお母さん方に、なにこの人?えらい歳いってんな(ーー゛)?お母さん?
みたいな目で見られて、おばあ”て呼ばれてもやだけど、なんか恥ずかしいなあ”と
言っていたのを覚えている。。。
そんな事をお母の病室で話をした。
「なんだ。まともじゃん。」とS也。
「だけど俺なら自分で育てる。」と言った。
「ふみちゃんもな。たぶん自分で育てたと思うよ。」と言った。
だけど、人それぞれ、お姉ちゃんはそう考えたのだ”と言う事。
S也は親はそれなりに考えはあったのか、、、”と言うような感じだった。
私がおかんと筆談しているメモ帳にほんの少しだけどS也の字があった。
「それだけでいいのか?」
「○○(駅名)まで来て」
「もう帰る」
たぶん何か買ってきて”と頼まれたのだろう。
途中は書くのがジャマくさくなってスルーしたか、、、。
たったちょっとの言葉だけど、なんかよかったよ。。。
自分一人で電車に乗って、ちゃんとお母に会いに行ったんだ。
よかった。。。
S也の子供の頃の事を思い出した。
運動会、お母が応援しにいっても、かけっこも途中でビリになると投げ出して
横にそれて歩いちゃって最後まで走り抜かない”とお母が嘆いていた事があった。
今年はふみちゃんも見に行くよ!”とまだ幼稚園だったかな?
小学校あがってたかな?
まだその頃20代でイケイケ姉ちゃん”だった私。
「S也ー!!走れー!!最後までちゃんと走れー!!行けー!!」と
前列に出てすっごい勢いで叫んでやった。
その年、S也ケツから2番目だったが最後まで走り抜いた。
「やったな

あー、あんな子供だったのに、もう大人なんだな。。。
あの頃、お母にも台風の中、シンナー吸ってるの見つかって、引っ張ってうち連れて帰られたな。。。
「汚いな!お前は!よだれふけや!!」なんて言われながら、体拭いてくれてたよなぁ、、、。
お母も歳いくよね。。。
この間、さつまいもを煮て持って行ったら、
見るなり、「あ!おいしそうやな!」と言ってパクパクっと少し食べた。
鮭が好きなおかん、鮭雑炊にして持っていったら、少し食べて、
「お母、味覚がおかしくなったのかな(._.)」と言って食べなかった。
決してまずいわけではなかったと思うよ

もともとすっごい味付け濃いから、私が薄味にして作って持って行ったモノは
味がしなかったのだろう。。。
もうお粥はイヤだ”と言っていたので、もう少し固めのモノにしてもらえるように先生に頼んだ。
先生はじゃあ明日から”と言ってくださった。
私も胃や十二指腸壊して、何度も入院しているから、あの病院食のまずさ”と言ったら(*_*;。。。
言わなくてもわかる。。。
余計具合悪くなりそう”って感じだったよ。。。
汁だけしかないような物が何日か続いた後、
バリウム検査した時は、さすがに我慢できず、機械が逆さ向いた時、
オウェー!!と、そりゃ~勢いよく飛び散らしましたよ

「無理です


その後、胃カメラ飲んださ(-"-)。。。
私にはその方がずっとマシだった。。。
おかんには、胃カメラ検査はもう死ぬ思いだったのだろう。。。
「もういやや!」と何度も何度も言っていた。
「お母の胃カメラの写真見せてもらったよ。私の時よりずっときれいだったよ。ちょっと安心だね。」
と言ったらほっとしていた。
この間、先生に「やはり余命伝えようかと思います。」と言ったら、
伝えるなら早い方がいい”と言われた。
なんであの時言ってくれなかったんだ!”とかいう風になってしまうといけないから”と、、、。
そうだな。。。
先生の言う通りだ。
今、ちょっと元気にはしている。
この間、足のマッサージをしてやって、足裏樹木シートを貼ってやったら、
多少調子が良かったみたいだ。
少し歩けた

なかなか言えない。
でも、うすうす感づいてはいるような感じだ。
「来年の正月迎えられるかな?」と言ったりする。。。
嘘はつきたくない。
言葉にならない。言葉にできない。。。
痛み止めも、この間からモルヒネを使いだした。
痛みが和らぐことで、多少安心はあるだろう。。。
ほんとに病人とは思えないような顔してるんだ。
ほんとかな?
このまま、元気になって、ガン細胞持ったまま10年くらい生きるんじゃないかな?
と思わされるような顔してる。
そんな奇跡はないのかな?、、、
今日は春雨を持っていってあげよう。。。

さくさくスイーツ
ただただ無心になりたい時、こんな簡単ゲーム、結構いい☆
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