自分との葛藤
7月6日におかんが救急車で運ばれて、
嘘のように2週間が過ぎた。
6日の日、先生から告知をされた時は
もう来週は苦しみ出すかも”という思いだった。。。
肺に水がたまっているし、ガンもあちこちに転移しすぎて、
どこが原因なんてもうわからない状態で、、、。
ステージⅣの段階なんだ。。。
短い時間だったが、私なりに考え、やはり仕事よりおかんを選んだ。
最初のうち病状を把握していなかったおかんは、夜中にトイレへ
フラフラと起きて歩いて行ったりしていたらしい。
もうほとんど耳の聞こえなくなったおかん。。。
看護婦さんに何か話されてもトンチンカンな事ばかり言っていたのだろう。
絶対安静”をわからせるのに、遠回しな事ばかり並べ立て
筆談でわからせるのには結構疲れるものがあった。
病院で3時間筆談していると、帰ってくると結構疲れている。
何もかも一つ一つ筆談だ。
甥を連れて行ったが、やはり今の子は子供なのだろうか?、、、
あの子が子供すぎるのか?、、、
最初連れて行った時は、普通に身の周りのものの買物をさせて
持っていき、S也はほとんどおかんとしゃべらなかった。
私が少ししゃべっていた事に笑ったりしていたが、
本人気付いていないか知らないけど声が大きい。
私も入院が多かったのでわかるが、土日はうるさくてうんざりしていた。
迷惑なんだ!すごく!!他の入院患者さんに!!
そんな事もわからないのかな?この子”ってイライラした。
私がおかんと筆談している事を見て、
「いちいち、真に受ける事ない。損な性格してるね。スルーしやいいじゃん!」
と言った。
もうあと少ししか命がないおかんに誰とも会話のない世界にいろ”と言うのか?
確かにおかんはグータラで、私が「そのうち手話が必要になるからやれ!」と
言った事なんて、自分には無縁だと知った事かと言うような態度で生きてきた。
今、おかんの耳には昔のテレビの砂嵐状態の音が聞こえているんではないだろうか?と思う。。。
私がいちいちメモ帳に書いていることなんて
自分がやった事がないから、しんどさもわからないだろう。
ムカついたから、この間、もうしんどいから今日はペン持ってこなかったよ!”と言った。
まったく話にはならなかった。。。
その後行った時も、わざとしゃべっていたら、聞こえないのだろう。。。
「紙に書いて
!!」と言われた。
自分のやってきた事はこういう事なのだ。。。
勉強をしないとはこういう事なのだ。
歯もないから、ろくに食べれない。
おかんに何が食べたい?と聞いて、この間シチューを作って持っていってやった。
じゃがいもを一口、あとは小さい肉を10分以上噛んでいた。
それ以上は、もういらんいらん!”と言って食べなかった。
帰る時にアロマを少し振ってやったら「ええ匂いやなぁ”」と言っていた。。。
甥はわがままで、正直まるで世捨て人のような子だ。
今時、携帯も持たない、運転免許も持たない、自分の好き勝手に行きたい所へ行く。
今まで結構あの子の味方をしてきた。
だけど、もういい加減あんな歳にまでなって、怒りを覚える。
おかんが「S也はいつもふみちゃんと一緒だねえ”」と言った時、
大声で怒ってやりたい所だった。
あの子は私と一緒なんじゃなくて、私と一緒じゃなきゃこうして病院一つも来れないんだよ!!って
おかんにもしもの事があったって、あの子には緊急の連絡も届かないの!!
私が障害者である事も全然理解していない。
おかんの為と思って、わざわざ迎えに行くが、いつまであの子はあんな風なんだろう。
私が車で行って、降りて、玄関先まで行き、ピンポンチャイムを鳴らして
出てくるまでに何分かかるか?
私は障害者なんだよ!!待たせんな!!なんでそんな優しさがないんだ!!
イライラする、あの子には!!
立ってしゃべるのは私には辛いから、そこのファミレスでも行こうか?”
なんて言っても煩わしいのはいやなのだろう。。。
この間は玄関先であの子は座り、私は立ったまま1時間しゃべった。
もういいよ!あの子。
はっきり言って、言いたくはないが、出来そこないだ。
おかんの余命宣告について話した。
私は言うべきだと思う。
S也は反対した。「もう死ぬんだから知らせなくてもいい!」と言って睨まれた。
正直、最初先生から余命1カ月と聞いた時は、
このまま知らせずになんとか痛み少なく、それだけを考えて”と思った。
だけどそれはこの子の為にもよくない。
ずっと逃げ”か?
もう死ぬ”とわかっていて、自分の心におさめて、おかんのしゃべる事スルーできるのか?
それで自分人間か!と言いたい。
筆談でもおもしろい出来事書いて渡せば、読んで「ははははは(^◇^)」と笑っているんだぞ!
なぜそれがこの子にわからない?
この1週間は特に考えた。
今週もってくれた。奇跡としか言いようがないような状態でいる。
鼻から酸素を通していたのに、それを抜いた。
それから金曜日、おなかの水を抜いた。
水を抜くのは危険もあるような事を先生は言われていたが、
あまりにも痛い”と本人が言うなら、何らかの処置をしてやれば
その方が気休めにもなるかもしれない”と思い、処置してください”と言った。
抜いたその日は疲れたのだろう。
グッタリしていた。。。
少しおなかが凹んでいた。
ものの2日たたない間におなかはパンパンになってしまった。
抜く前と違って体自体が硬い。
余命を知らないおかん、言ってる事も先生から見たら
なんてバカなんだ”と思われているのかもしれない。
私があまりに絶対安静”を強く言いすぎてベッドから動かなくなった。
そしたら、この間、先生に「抗がん剤治療するにしても体力なさすぎ。
歩いてるのも見た事ないですし。」と言われた。
ちょっとカチン
ときた。
入院したすぐの時、「フラフラと平気でトイレへ歩いてかれたりするので何かあったら困る」
と言ったのは先生だぞ!!
全然認識していないお母に散々言って、おとなしくしとくように言い聞かせたんだ!!
こんな年寄りの重症者3日間歩かせなきゃすぐに歩けなくもなるさ!!
おかんは運ばれる前まで近所の薬局くらい出かけて行ってたんだよ
だけど、どう見ても命のないおかん。。。
先生に余分な事を言うのはやめた。
先生は転院の話をされた。
あと少ししかないのに?、、、。
だけど、しょうがない。そこは病院なんだから。。。
救われる命があるなら、そこのベッド明け渡してやらないと、、、。
死を待つだけの人を置いておく所ではない。
前に私が住んでいた時に仲良くしてくださってた方に連絡したら、
すぐに連絡をくれた。
その方もお父さんを亡くされ、お母さんと二人きりで過ごしていて
何年か前にお母様を亡くされた。
何度も何度も入退院繰り返され、付き添い、一生懸命頑張り抜かれた。
その方も障害者だ。
正直、「私もね、、、」とか言いだす人の言う事は年齢関係なく私は聞かない。
たいがいの人の言う事は
私から言わせたら大した苦労とは思えないからだ。
だけど、その方は痛みも葛藤もわかってらした。
話をした時、「こんな事思う自分もイヤなんですが、正直、親が死んだら
やっと私開放されるのかな”と思ってしまいます。」と言ったら、
「私も同じ事思ったよ。」と言ってくださった。
余命宣告もその方はお母様に告げた”と言われた。
それはいつ?”と聞いたら、もう明日か明後日か、もうないよ”と言われた時”と言われた。
それから2カ月生きました”と、、、。
告げる事によって、死に対する覚悟ができる”と。
何も知らずにこんな生活がいつまで続くんだろう”と不安にならせるよりは
どんな人も必ず考える時間が出来ます”と、、、。
私もお母に反省してほしい事はたくさんある。
だけど、お母に人生を振り返り、反省する事なんて出来るだろうか?、、、
たぶん出来ないだろう。。。
その方には、それも望んではダメだよ”と言われた。
自分の母親の事も話してくださった。
そういう風に生きてきた人はそういう風に死んでいくよ”と。
先週、お母のうちが運ばれた時のままになってるだろう”と思い、行ってみた。
人間の住む所ではない”というくらいひどいものになっていた。
一緒に暮らしていたじじいの食べさしのものにコバエがたかり、
炊飯器の中の米はグチャグチャになっていて、
風呂場の木は腐り、枯れた観葉植物が置いてあって、
トイレには使ったトイレットペーパーの芯だけが紙袋にまとめて入れて置いてあった。
タオルは私が引っ越した時のままのモノだった。
ゴミがグチャグチャでじじいが飲んだ缶ビールにハエがたかっていた。
怒りが爆発しそうになるのを抑え、無言でたかるハエを振り払い、
ガスレンジの油からトイレ、風呂、全部掃除した。
Tりんに送ってもらったので、車で待ってると言ったTりんに「ちょっときて!」と電話して
その有様を見せてやった。
「ふみちゃん早かったな~!!」と言っていた。
Tりんは見た瞬間、俺はもうどうしていいかわからんかった”こりゃおっさん呼んで
なんとかさせないといかんなと思った”と言っていた。
怒りで、ザックザクと片付けてやったんだ
「いつもいつも汚いあんたのうち!ひとりもんのくせに!突然倒れたらあんたもこんな風なんやわ!」と、よくこの有様覚えとくんだね!”と言ってやった。
よくもよくもこんな汚い所に住んでいたな”と怒りが溢れ出てきた。
そして、、、
新聞受けには家賃の催促状が、、、。
それも5カ月!!
もう怒りで破裂しそうだった。
そりゃ家にも帰りたくないわね?
毎回毎回そんな事ばっかりやってきた。
払い物がたまってくると、自分で血糖値あげるような事して病院行って、
そりゃ、散々飲み食いした挙句血糖値測ったら誰だって上がってるってば
で、入院して、保護費ためて払いもん形つくようになった頃、帰ってくんだ。
あの人は私がどんな思いで今の自分の生活を作ってもらったか”なんて
1ミリたりともわかっていない人だ。
今あのうち追い出されたら、住所のない人間に保護費は下りないんだぞって
そしたら入院どころか治療だって受けれないんだ!!
野垂れ死になんだよ!!
誰のおかげで今の生活があると思ってるんだ!!!
私が足の手術をして、長期療養の為”って国からおりたお金は1カ月たった
7~8万ほどのものだった。
部屋はお母名義になってたから家賃分はおりなかった。
私名義にするか?と役所の人に言われたが、
引っ越したすぐの時に、私はそこの人達に出ていけと署名され、勝手に棟会議され、
ばかなおかんの発言で全面的に私が悪モノにされてしまったんだ。
私は反省などしていない!と言いたかった。
それまで分譲の広い街中のうちに住んでて、うるさきゃ、
ピンポンピンポン
「静かにしろ!うるさいな!
」
で通る所にしか住んだ事なかったから知らないよ!
うるさくするやつが悪いんだ!
ちっちゃい集合住宅でさ、その頃の私の心境は、
こんな低所得者層!私のいる所ではないわ!と思ってた。
最終的に、半年くらいで私は引っ越して行きますのでその間居させてください”と
今後うるさいなどと、二度と言いません”と一筆書かされ、住む事を了承してもらった。
結局は病気が重なり、引っ越すまでには4年半ほどかかったけど、、、。
うちの上には子供が二人いてドンドンドンドン毎日毎日うるさかった。。。
はっきり言ってうちには子供が二人いてうるさくて、ご迷惑かけるかもしれませんが”と
頭を下げるのは向こうではなかったのか”と今も思う。
子供はそのうち育つんだから、うるさいのは何年かだけだし、
みんな子供の頃はうるさかったんだ。
自分の非を隠す為に人を悪者に仕立て上げるなんて、
まあ、なんと意地の悪い人だった事。。。
ご主人もいて、その若さでこんな所に住むなんて”と
私はその人を、自分の心の中で蔑んで見る事でそこでの生活を堪えた。
その間、いつか帰ってくるだろうお母の為にあの家でネバって暮らしてたんだ。
私に療養なんて呼べる日はなかったよ!
近所のいじめ同然に自治会の役員やらされ、足りないお金の分を
松葉杖ついてでも仕事に行って稼いでたんだ。
自治会の集まりだって、負けるもんか!”て思いで、わざとらしく松葉杖ついて
「すいません”すいません”」といかにも可哀そそうな人の雰囲気で出席してやった。
ここの人達はこんな病人に役員やらせるような非情な人達なんだよ!”って
遠回しにいつか返ってくるだろう仕返しを待ってろ”と思った。
だけど、そこで私が1年役員をしたら、もう後はお母が帰ってきた後、
たぶん死ぬまで順番は回ってくることはないだろう”と思い、頑張った。
色んな事に堪えて、やっとお母の今の生活を手に入れたんだ。
保護費だって、お母一人暮らしという名目を立ててやらないと
私の働いた分差し引かれてほんとにわずかしか貰えなくなってしまう。
だから私は自分から保護費打ち切りを申し出て、うちを出たんだ。
お母が今のじじいと勝手な事をしている間、
私はお母と住んでいる事にして、保護費をお母に渡していた。
ほんとに思えば一生たかられ続けた。。。
そして、今。
5カ月、生活費を使いこむって、どういう心境なのかね。。。
私への裏切り。平気で裏切る。
私のお金なんてなんとも思っちゃいない。
やってやる”と言った事、ずっと地道に家計やりくりして渡してやったお金の事なんて
なんとも思っちゃいない。
たったこれっぽっち!”と捨て台詞は何度も言われた。
門前払い食らおうが、何万とお金を投げ捨てでもくれるお姉ちゃんの方が
お母にはずっと大事だったのだ。
25にもなっても、いつまでも5歳くらいのままだと思ってる孫のS也の事の方が
ずっと大事なのだ。
おかあの腹に水がたまりだしたのは、S也にお金を貸した頃からだ。
家賃の滞納もその頃からだ。
お母、正直しんどい”と言っていた。
S也が仕事がないって、お金がないって言うからご飯食べにおいで”って
1カ月毎日買物に行ってご飯作って食べさした”と言っていた。
結構野菜って重たいんだよね。。。
だけど、それもお母の選んだ道。
S也をそう育てたのもお母なんだ。
一生懸命してやって、もう死ぬと言う頃、筆談一つもしてくれない子に
育てたのはお母だ。。。
あの子には正直ムカムカする。
ムカムカするんだー!!
言いたくないが、私の子じゃなくてよかったよ!”と言いたいわ!
金がないのはグータラに過ごした自分が悪いんだ!!
どうしてもなきゃ自分の親に頭下げに行きゃよかったんだ!
うちらと違って、お姉ちゃんは腐るほど金持ってんだから!!
私やお母が2~3万のお金にピーピー言うのと違って
0一つ余分にくっつけてポンと出してくれるだろうさ!!
しょうもないとこ意地はって、私らに迷惑かけやがって
あのクソガキャ!!
こうやって最終的な尻拭いはいっつも私なんだよ!!
それをあのクソガキャわかってない!
ずっと私だって可愛がってきたよ、あの子の事。
たぶんお姉ちゃんなんかよりずっとね!
だけど、お母が可愛がり過ぎたせいで、なまくらだ。
私も私を育てたおばさんと同じ事言うのか?と思うとイヤだけど
あの子はもう大人だ。
もうあんな風になった子はどうしようもないわ。。。
私はかわいがってくれる人なんていなかったから、
S也には私みたいな思いはさせたくないと、いいよいいよ”で
褒めて、喜びの言葉も多く言うようにしてきた。
それがよくなかったのかね、、、。
S也は反対しているけど、
お母への余命宣告は出来れば転院先が決まったら
告げようと思う。
それまで命があれば、、、。
この一週間ほどは自分の中でお母に対する怒りもあって
ただただ心淋しいのをこらえて看病という状態ではなかった。
あまりに怒りが堪え切れない日はお母の顔だけ見て
10分ほどで帰ってきた日もあった。
命があると思ってるから、まだ嘘ばかりつく。
できれば、安らかに逝かせてあげたい。
この苦しみ乗り越えた後には、扉を開いたら光輝くような所が待ってる。
そんな思いで迎えさせてあげたい。
今の状態じゃこの世に未練残して、醜く恨みつらみ残して
こんな苦しい思いいやだー!!うわあ!!て
言葉のごとく往生際悪い”て事にさせてしまうのではないか?、、、
だから死を受け入れて、したかった事、食べたかったもの、
最後にそばにいてほしい人を素直に言える状況を”と思う。。。
今は命あると思ってるから突っぱねてるし、
あんな風だと最後にじじいに一緒にいてもらう事できないかもしれない。
じじいにはそばにいてほしいはずだと私は思う。
例えば余命3年と言われたとして、
結局はギリギリまでだんまりで言うのは1カ月前なんだ。。。
普通の人なら、闘病生活した期間を
なんにも気付かず、元気に過ごしてこれた事を幸せだと思おう。
苦しむ期間を少なくしてくれた事に感謝しよう。。。
この一週間、なんでこんな死ぬ間際に
こんな怒りや憎しみ持たなきゃいけないの!”って
心の葛藤があった。
だけど、私を生んでくれた大事な親だ。
お母がいてくれただけで心強くなれた。
お母がいたから、私強くなれた。
昨日、「これすっごいよく眠れるんだ」とアイマスクしてやったら、
「ええ匂いやなあ、、、」と言っていた。
あのまま、ぐっすり眠ってくれただろうか、、、。

嘘のように2週間が過ぎた。
6日の日、先生から告知をされた時は
もう来週は苦しみ出すかも”という思いだった。。。
肺に水がたまっているし、ガンもあちこちに転移しすぎて、
どこが原因なんてもうわからない状態で、、、。
ステージⅣの段階なんだ。。。
短い時間だったが、私なりに考え、やはり仕事よりおかんを選んだ。
最初のうち病状を把握していなかったおかんは、夜中にトイレへ
フラフラと起きて歩いて行ったりしていたらしい。
もうほとんど耳の聞こえなくなったおかん。。。
看護婦さんに何か話されてもトンチンカンな事ばかり言っていたのだろう。
絶対安静”をわからせるのに、遠回しな事ばかり並べ立て
筆談でわからせるのには結構疲れるものがあった。
病院で3時間筆談していると、帰ってくると結構疲れている。
何もかも一つ一つ筆談だ。
甥を連れて行ったが、やはり今の子は子供なのだろうか?、、、
あの子が子供すぎるのか?、、、
最初連れて行った時は、普通に身の周りのものの買物をさせて
持っていき、S也はほとんどおかんとしゃべらなかった。
私が少ししゃべっていた事に笑ったりしていたが、
本人気付いていないか知らないけど声が大きい。
私も入院が多かったのでわかるが、土日はうるさくてうんざりしていた。
迷惑なんだ!すごく!!他の入院患者さんに!!
そんな事もわからないのかな?この子”ってイライラした。
私がおかんと筆談している事を見て、
「いちいち、真に受ける事ない。損な性格してるね。スルーしやいいじゃん!」
と言った。
もうあと少ししか命がないおかんに誰とも会話のない世界にいろ”と言うのか?
確かにおかんはグータラで、私が「そのうち手話が必要になるからやれ!」と
言った事なんて、自分には無縁だと知った事かと言うような態度で生きてきた。
今、おかんの耳には昔のテレビの砂嵐状態の音が聞こえているんではないだろうか?と思う。。。
私がいちいちメモ帳に書いていることなんて
自分がやった事がないから、しんどさもわからないだろう。
ムカついたから、この間、もうしんどいから今日はペン持ってこなかったよ!”と言った。
まったく話にはならなかった。。。
その後行った時も、わざとしゃべっていたら、聞こえないのだろう。。。
「紙に書いて

自分のやってきた事はこういう事なのだ。。。
勉強をしないとはこういう事なのだ。
歯もないから、ろくに食べれない。
おかんに何が食べたい?と聞いて、この間シチューを作って持っていってやった。
じゃがいもを一口、あとは小さい肉を10分以上噛んでいた。
それ以上は、もういらんいらん!”と言って食べなかった。
帰る時にアロマを少し振ってやったら「ええ匂いやなぁ”」と言っていた。。。
甥はわがままで、正直まるで世捨て人のような子だ。
今時、携帯も持たない、運転免許も持たない、自分の好き勝手に行きたい所へ行く。
今まで結構あの子の味方をしてきた。
だけど、もういい加減あんな歳にまでなって、怒りを覚える。
おかんが「S也はいつもふみちゃんと一緒だねえ”」と言った時、
大声で怒ってやりたい所だった。
あの子は私と一緒なんじゃなくて、私と一緒じゃなきゃこうして病院一つも来れないんだよ!!って

おかんにもしもの事があったって、あの子には緊急の連絡も届かないの!!
私が障害者である事も全然理解していない。
おかんの為と思って、わざわざ迎えに行くが、いつまであの子はあんな風なんだろう。
私が車で行って、降りて、玄関先まで行き、ピンポンチャイムを鳴らして
出てくるまでに何分かかるか?
私は障害者なんだよ!!待たせんな!!なんでそんな優しさがないんだ!!
イライラする、あの子には!!
立ってしゃべるのは私には辛いから、そこのファミレスでも行こうか?”
なんて言っても煩わしいのはいやなのだろう。。。
この間は玄関先であの子は座り、私は立ったまま1時間しゃべった。
もういいよ!あの子。
はっきり言って、言いたくはないが、出来そこないだ。
おかんの余命宣告について話した。
私は言うべきだと思う。
S也は反対した。「もう死ぬんだから知らせなくてもいい!」と言って睨まれた。
正直、最初先生から余命1カ月と聞いた時は、
このまま知らせずになんとか痛み少なく、それだけを考えて”と思った。
だけどそれはこの子の為にもよくない。
ずっと逃げ”か?
もう死ぬ”とわかっていて、自分の心におさめて、おかんのしゃべる事スルーできるのか?
それで自分人間か!と言いたい。
筆談でもおもしろい出来事書いて渡せば、読んで「ははははは(^◇^)」と笑っているんだぞ!
なぜそれがこの子にわからない?
この1週間は特に考えた。
今週もってくれた。奇跡としか言いようがないような状態でいる。
鼻から酸素を通していたのに、それを抜いた。
それから金曜日、おなかの水を抜いた。
水を抜くのは危険もあるような事を先生は言われていたが、
あまりにも痛い”と本人が言うなら、何らかの処置をしてやれば
その方が気休めにもなるかもしれない”と思い、処置してください”と言った。
抜いたその日は疲れたのだろう。
グッタリしていた。。。
少しおなかが凹んでいた。
ものの2日たたない間におなかはパンパンになってしまった。
抜く前と違って体自体が硬い。
余命を知らないおかん、言ってる事も先生から見たら
なんてバカなんだ”と思われているのかもしれない。
私があまりに絶対安静”を強く言いすぎてベッドから動かなくなった。
そしたら、この間、先生に「抗がん剤治療するにしても体力なさすぎ。
歩いてるのも見た事ないですし。」と言われた。
ちょっとカチン

入院したすぐの時、「フラフラと平気でトイレへ歩いてかれたりするので何かあったら困る」
と言ったのは先生だぞ!!
全然認識していないお母に散々言って、おとなしくしとくように言い聞かせたんだ!!
こんな年寄りの重症者3日間歩かせなきゃすぐに歩けなくもなるさ!!
おかんは運ばれる前まで近所の薬局くらい出かけて行ってたんだよ

だけど、どう見ても命のないおかん。。。
先生に余分な事を言うのはやめた。
先生は転院の話をされた。
あと少ししかないのに?、、、。
だけど、しょうがない。そこは病院なんだから。。。
救われる命があるなら、そこのベッド明け渡してやらないと、、、。
死を待つだけの人を置いておく所ではない。
前に私が住んでいた時に仲良くしてくださってた方に連絡したら、
すぐに連絡をくれた。
その方もお父さんを亡くされ、お母さんと二人きりで過ごしていて
何年か前にお母様を亡くされた。
何度も何度も入退院繰り返され、付き添い、一生懸命頑張り抜かれた。
その方も障害者だ。
正直、「私もね、、、」とか言いだす人の言う事は年齢関係なく私は聞かない。
たいがいの人の言う事は
私から言わせたら大した苦労とは思えないからだ。
だけど、その方は痛みも葛藤もわかってらした。
話をした時、「こんな事思う自分もイヤなんですが、正直、親が死んだら
やっと私開放されるのかな”と思ってしまいます。」と言ったら、
「私も同じ事思ったよ。」と言ってくださった。
余命宣告もその方はお母様に告げた”と言われた。
それはいつ?”と聞いたら、もう明日か明後日か、もうないよ”と言われた時”と言われた。
それから2カ月生きました”と、、、。
告げる事によって、死に対する覚悟ができる”と。
何も知らずにこんな生活がいつまで続くんだろう”と不安にならせるよりは
どんな人も必ず考える時間が出来ます”と、、、。
私もお母に反省してほしい事はたくさんある。
だけど、お母に人生を振り返り、反省する事なんて出来るだろうか?、、、
たぶん出来ないだろう。。。
その方には、それも望んではダメだよ”と言われた。
自分の母親の事も話してくださった。
そういう風に生きてきた人はそういう風に死んでいくよ”と。
先週、お母のうちが運ばれた時のままになってるだろう”と思い、行ってみた。
人間の住む所ではない”というくらいひどいものになっていた。
一緒に暮らしていたじじいの食べさしのものにコバエがたかり、
炊飯器の中の米はグチャグチャになっていて、
風呂場の木は腐り、枯れた観葉植物が置いてあって、
トイレには使ったトイレットペーパーの芯だけが紙袋にまとめて入れて置いてあった。
タオルは私が引っ越した時のままのモノだった。
ゴミがグチャグチャでじじいが飲んだ缶ビールにハエがたかっていた。
怒りが爆発しそうになるのを抑え、無言でたかるハエを振り払い、
ガスレンジの油からトイレ、風呂、全部掃除した。
Tりんに送ってもらったので、車で待ってると言ったTりんに「ちょっときて!」と電話して
その有様を見せてやった。
「ふみちゃん早かったな~!!」と言っていた。
Tりんは見た瞬間、俺はもうどうしていいかわからんかった”こりゃおっさん呼んで
なんとかさせないといかんなと思った”と言っていた。
怒りで、ザックザクと片付けてやったんだ

「いつもいつも汚いあんたのうち!ひとりもんのくせに!突然倒れたらあんたもこんな風なんやわ!」と、よくこの有様覚えとくんだね!”と言ってやった。
よくもよくもこんな汚い所に住んでいたな”と怒りが溢れ出てきた。
そして、、、
新聞受けには家賃の催促状が、、、。
それも5カ月!!
もう怒りで破裂しそうだった。
そりゃ家にも帰りたくないわね?
毎回毎回そんな事ばっかりやってきた。
払い物がたまってくると、自分で血糖値あげるような事して病院行って、
そりゃ、散々飲み食いした挙句血糖値測ったら誰だって上がってるってば

で、入院して、保護費ためて払いもん形つくようになった頃、帰ってくんだ。
あの人は私がどんな思いで今の自分の生活を作ってもらったか”なんて
1ミリたりともわかっていない人だ。
今あのうち追い出されたら、住所のない人間に保護費は下りないんだぞって

そしたら入院どころか治療だって受けれないんだ!!
野垂れ死になんだよ!!
誰のおかげで今の生活があると思ってるんだ!!!
私が足の手術をして、長期療養の為”って国からおりたお金は1カ月たった
7~8万ほどのものだった。
部屋はお母名義になってたから家賃分はおりなかった。
私名義にするか?と役所の人に言われたが、
引っ越したすぐの時に、私はそこの人達に出ていけと署名され、勝手に棟会議され、
ばかなおかんの発言で全面的に私が悪モノにされてしまったんだ。
私は反省などしていない!と言いたかった。
それまで分譲の広い街中のうちに住んでて、うるさきゃ、
ピンポンピンポン


で通る所にしか住んだ事なかったから知らないよ!
うるさくするやつが悪いんだ!
ちっちゃい集合住宅でさ、その頃の私の心境は、
こんな低所得者層!私のいる所ではないわ!と思ってた。
最終的に、半年くらいで私は引っ越して行きますのでその間居させてください”と
今後うるさいなどと、二度と言いません”と一筆書かされ、住む事を了承してもらった。
結局は病気が重なり、引っ越すまでには4年半ほどかかったけど、、、。
うちの上には子供が二人いてドンドンドンドン毎日毎日うるさかった。。。
はっきり言ってうちには子供が二人いてうるさくて、ご迷惑かけるかもしれませんが”と
頭を下げるのは向こうではなかったのか”と今も思う。
子供はそのうち育つんだから、うるさいのは何年かだけだし、
みんな子供の頃はうるさかったんだ。
自分の非を隠す為に人を悪者に仕立て上げるなんて、
まあ、なんと意地の悪い人だった事。。。
ご主人もいて、その若さでこんな所に住むなんて”と
私はその人を、自分の心の中で蔑んで見る事でそこでの生活を堪えた。
その間、いつか帰ってくるだろうお母の為にあの家でネバって暮らしてたんだ。
私に療養なんて呼べる日はなかったよ!
近所のいじめ同然に自治会の役員やらされ、足りないお金の分を
松葉杖ついてでも仕事に行って稼いでたんだ。
自治会の集まりだって、負けるもんか!”て思いで、わざとらしく松葉杖ついて
「すいません”すいません”」といかにも可哀そそうな人の雰囲気で出席してやった。
ここの人達はこんな病人に役員やらせるような非情な人達なんだよ!”って
遠回しにいつか返ってくるだろう仕返しを待ってろ”と思った。
だけど、そこで私が1年役員をしたら、もう後はお母が帰ってきた後、
たぶん死ぬまで順番は回ってくることはないだろう”と思い、頑張った。
色んな事に堪えて、やっとお母の今の生活を手に入れたんだ。
保護費だって、お母一人暮らしという名目を立ててやらないと
私の働いた分差し引かれてほんとにわずかしか貰えなくなってしまう。
だから私は自分から保護費打ち切りを申し出て、うちを出たんだ。
お母が今のじじいと勝手な事をしている間、
私はお母と住んでいる事にして、保護費をお母に渡していた。
ほんとに思えば一生たかられ続けた。。。
そして、今。
5カ月、生活費を使いこむって、どういう心境なのかね。。。
私への裏切り。平気で裏切る。
私のお金なんてなんとも思っちゃいない。
やってやる”と言った事、ずっと地道に家計やりくりして渡してやったお金の事なんて
なんとも思っちゃいない。
たったこれっぽっち!”と捨て台詞は何度も言われた。
門前払い食らおうが、何万とお金を投げ捨てでもくれるお姉ちゃんの方が
お母にはずっと大事だったのだ。
25にもなっても、いつまでも5歳くらいのままだと思ってる孫のS也の事の方が
ずっと大事なのだ。
おかあの腹に水がたまりだしたのは、S也にお金を貸した頃からだ。
家賃の滞納もその頃からだ。
お母、正直しんどい”と言っていた。
S也が仕事がないって、お金がないって言うからご飯食べにおいで”って
1カ月毎日買物に行ってご飯作って食べさした”と言っていた。
結構野菜って重たいんだよね。。。
だけど、それもお母の選んだ道。
S也をそう育てたのもお母なんだ。
一生懸命してやって、もう死ぬと言う頃、筆談一つもしてくれない子に
育てたのはお母だ。。。
あの子には正直ムカムカする。
ムカムカするんだー!!
言いたくないが、私の子じゃなくてよかったよ!”と言いたいわ!
金がないのはグータラに過ごした自分が悪いんだ!!
どうしてもなきゃ自分の親に頭下げに行きゃよかったんだ!
うちらと違って、お姉ちゃんは腐るほど金持ってんだから!!
私やお母が2~3万のお金にピーピー言うのと違って
0一つ余分にくっつけてポンと出してくれるだろうさ!!
しょうもないとこ意地はって、私らに迷惑かけやがって
あのクソガキャ!!
こうやって最終的な尻拭いはいっつも私なんだよ!!
それをあのクソガキャわかってない!
ずっと私だって可愛がってきたよ、あの子の事。
たぶんお姉ちゃんなんかよりずっとね!
だけど、お母が可愛がり過ぎたせいで、なまくらだ。
私も私を育てたおばさんと同じ事言うのか?と思うとイヤだけど
あの子はもう大人だ。
もうあんな風になった子はどうしようもないわ。。。
私はかわいがってくれる人なんていなかったから、
S也には私みたいな思いはさせたくないと、いいよいいよ”で
褒めて、喜びの言葉も多く言うようにしてきた。
それがよくなかったのかね、、、。
S也は反対しているけど、
お母への余命宣告は出来れば転院先が決まったら
告げようと思う。
それまで命があれば、、、。
この一週間ほどは自分の中でお母に対する怒りもあって
ただただ心淋しいのをこらえて看病という状態ではなかった。
あまりに怒りが堪え切れない日はお母の顔だけ見て
10分ほどで帰ってきた日もあった。
命があると思ってるから、まだ嘘ばかりつく。
できれば、安らかに逝かせてあげたい。
この苦しみ乗り越えた後には、扉を開いたら光輝くような所が待ってる。
そんな思いで迎えさせてあげたい。
今の状態じゃこの世に未練残して、醜く恨みつらみ残して
こんな苦しい思いいやだー!!うわあ!!て
言葉のごとく往生際悪い”て事にさせてしまうのではないか?、、、
だから死を受け入れて、したかった事、食べたかったもの、
最後にそばにいてほしい人を素直に言える状況を”と思う。。。
今は命あると思ってるから突っぱねてるし、
あんな風だと最後にじじいに一緒にいてもらう事できないかもしれない。
じじいにはそばにいてほしいはずだと私は思う。
例えば余命3年と言われたとして、
結局はギリギリまでだんまりで言うのは1カ月前なんだ。。。
普通の人なら、闘病生活した期間を
なんにも気付かず、元気に過ごしてこれた事を幸せだと思おう。
苦しむ期間を少なくしてくれた事に感謝しよう。。。
この一週間、なんでこんな死ぬ間際に
こんな怒りや憎しみ持たなきゃいけないの!”って
心の葛藤があった。
だけど、私を生んでくれた大事な親だ。
お母がいてくれただけで心強くなれた。
お母がいたから、私強くなれた。
昨日、「これすっごいよく眠れるんだ」とアイマスクしてやったら、
「ええ匂いやなあ、、、」と言っていた。
あのまま、ぐっすり眠ってくれただろうか、、、。
